株式会社ホープス
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第三百三十五言「映画 『平成ジレンマ~戸塚ヨットスクールの30年そして、現在~』を見て"責任"の所在を考える。」
皆さん、こんにちは。
野村るり子です。
映画、『平成ジレンマ 戸塚ヨットスクールの30年そして、現在』 (http://www.heiseidilemma.jp/)を見てきました。
戸塚ヨットスクールの創始者で校長でもある、戸塚宏氏と同スクールの30年間を追ったドキュメンタリー映画です。
戸塚ヨットスクールについてご存知でない方のために、簡単にスクールの成立ちについて説明を加えておきましょう。
戸塚ヨットスクールは1970年代に、一般児童と青少年向けのヨットスクールとして発足しました。「ヨット操法指導を通して人格形成を行う」ことが目的の全寮制のスクールです。受講生は「訓練生」と呼ばれ、保護者の元を離れスクールの宿舎で生活をしています。
不登校の少年や家庭内暴力をしていた少年が矯正されたとの噂が広まり、全国各地から不登校や家庭内暴力で家族を悩ませていた子どもたちの入校者が増えました。
しかし、後に同スクールでの体罰がマスメディアに取り上げられるようになりました。さらに、訓練生への傷害致死事件を起こして戸塚校長以下関係者15名が逮捕され有罪判決を受けました。
しかし、2006年の出所後、戸塚校長は己の信念を変えることなく、ヨットスクールを再度走らせることにしました。ただし、この時点で、体罰に対する肯定的な考えを持ちつつも、体罰を伴う教育方法は自粛するようになりました。
最近では、小、中、高生や20代の若年層に加え、30代や40代の引きこもりやニートも訓練生として入校するようになりました。
そして、2009年。18歳の訓練生の女性が寮の屋上より飛び降りて死亡したことをきっかけに、戸塚校長は再度マスメディアに追われることになりました。
以上の内容とほぼ同様のことが映画でも描かれていました。
では、ここで、映像を見て、私が感じた率直な意見を伝えておきましょう。
不登校の少年や家庭内暴力、中年層の引きこもりやニートといった現在日本が抱えている社会問題の解決の一つとして、同校の訓練を求める保護者が多いことは確かのようです。そして、本来家庭や義務教育課程で解決すべきであった問題を、どうにも解決できなくなった保護者たちが、"最後の砦"として、戸塚ヨットスクールに子どもたちを入校させているように感じました。
すなわち、入校にあたり、子ども本人の意志はあまり感じられず、入校させたいという保護者の意志が圧倒的に強いように感じました。
ここで疑問に思ったのは、スポーツトレーニングなど、ある一定の競技レベルを求めるのであれば、戸塚ヨットスクールでの厳しさに近い指導が、日本国内でも行われてきていたのではないかということです。問題は、そのトレーニングに参加する子どもに参加の意志があったかです。子どもに参加の意志があった場合、子どもたちは厳しいトレーニングを喜びと置き換える思考をくり返すように思います。しかし、もしそこに、子どもの意志がなく、「やらされている」という気持ちのみで参加しているのであれば、指導の全てを苦痛として受け入れるでしょう。そこに、指導者の愛情があったとしても、意志のない子どもたちには、指導から得るものを喜びへと変換する思考の力は志を持った者と比較し、顕著に弱いと思います。
次に体罰についてです。この映画は、これまでのテレビや新聞、雑誌といった一般的なメディアでは伝え切れていなかった、"子供の成長を期待する"という戸塚校長の強い思いを伝えることで、多くの誤解を取り除く目的で作られた作品のように思います。
本作品の前半で、映し出された戸塚校長の「体罰肯定」の主張シーンは、私の考える教育とは大きくかけ離れており、映画館の席を離れたくなるような衝動にかられました。しかし、徐々に映し出されていく、子どもたちの笑顔や、保護者からの感謝が綴られた手紙の文面などを見ていくうちに、戸塚校長の"子どもを育てたい"という強い思いは、一般的な教育者のものを遥かに超えていると感じました。また彼は、何があろうと"子どもを育てる"ことから逃げようとしません。
はっきり申しあげて、私は体罰に対し100%反対です。しかし、体罰をする指導者全てを一つの計りにかけて比較することは無理があると感じます。追求しなくてはならないことは、「体罰」という行動の裏にある、「動機」です。戸塚校長は、「子どもを傷つける目的ではなく、子どもを育てる目的」であることを限定し、体罰を肯定していたように思います。
最後に、私は、この映画を見終わって、三つの疑問が脳裏を掠めました。
一つは、子どもを入校させることを決定した保護者についてです。
保護者の意志で入校を決めた時点で、彼らは戸塚ヨットスクールの指導に、子どもの指導を委ねようとしたのではないか。それにも関わらず、傷害問題が発生した後、全ての責任をスクール側にあり、としたのではないか?もし、指導に対する疑問があるのなら、なぜ、もっと早い時点で、子どもたちを寮から自宅、あるいはそれ以外の保護観察できるところに引き上げさせなかったのか?結局、保護者の意志で、戸塚ヨットスクールを子どもの矯正の場として選んだのではないか?
もう一つは、メディアついてです。
一部のメディアに、視聴者をある一定の考えに誘導させる、偏った報道はなかったのか?
最後は、戸塚ヨットスクール関係者についてです。
入校にあたり、子どもの意志確認ができなかったのか?保護者の意志尊重が過多ではなかったか?
ここまで綴った私自身も、今回の映画および、これまでの報道に惑わされてきた一人のはずです。決して、全ての真実を知った上で本ブログを書けているわけではありません。この点についてはご了承頂きたく思います。
そして、この映画を鑑賞された方がいらしたら、本映画への思い(感想)をお聞かせ願えればと思います。info@hopes-net.org までメールを下さいましたら、必ず、野村が拝読させて頂きます。
野村るり子
第三百三十四言「文芸作品について思うこと」
皆さん、こんにちは。
また、新しい週の始まりです。
そして、初春に向けて何か新しいことに挑戦してみてはいかがでしょう?
私の周りには、ビジネス書や実用書を書かれている方が、思いの他たくさんいらっしゃいます。しかし、一方で、文芸作品を書くための"修行"をつまれている人との出会いはあっても、実際に、作品を発表した人と出会う機会は大変少ないです。
その理由について、考えてみました。
まず、文芸作家を職業として持つ場合の、生活の安定を危惧する人の数が多いことが挙げられます。
ビジネス書や実用書であれば、軸となる仕事を持ち、その傍らで、執筆活動をすることが比較的容易です。いわゆる"本業"を通じ、知りえたことや体験したことを、そのままビジネス書や実用書で活かすことが可能です。
また、大手書店に足を運んでみて下さい。文芸書の売り場の狭さと、ビジネス書・実用書の売り場の広さを比較してみて下さい。雲泥の差を感じるはずです。それだけ、一般市民が文芸書を発表する機会は、スリムであるということです。
では、なぜ、ビジネス書や実用書は、毎日毎日、新書が発売され、何十万部突破!といったPOPが立つのでしょうか?それは、ビジネス書や実用書が、顕著に読みやすく書かれており、読者層の拡大が比較的容易だからです。
一方、文芸書となると、クラシカルな絵画や彫刻、音楽といった芸術を理解するのと同じぐらい、読む側の思考力や想像力が求められます。
例えば、芥川賞受賞作品などは、100ページちょっとの短いものでも、その2倍のページ数であるビジネス書や実用書を読むよりエネルギーを要します。それぞれの読者には、読解力や想像力が求められるのです。しかし、この"読みにくさ"故、文芸書は時代を越え、読み継がれていくのです。なぜなら、そこに、"神秘性"のようなものを感じるからです。
次に使用される語彙や言い回しの観点から"読みやすさ"についても考えてみました。
ビジネス書や実用書では、テレビやラジオで耳にするような口語的表現。新聞で目にするような誤解のない表現が多く用いられています。
一方、文芸書では、義務教育課程では出あうことのない語彙や、言い回しが多く含まれています。また、文法においては、主語や述語が明確な構文が使われているとは限りません。よって、読者は、何度も立ち止まり、筆者の意図を汲み取る努力をくり返すことになります。
では、"難しい"、そして、"分かりにくい"作品が、なぜ、文芸作品では、「良書」と見なされるのでしょう。この答えは、先に述べた、クラシカルな絵画や彫刻、音楽と共通しているように思います。
分かり易い絵画や彫刻は大衆受けをするでしょう。しかし、時代の変化とともに廃れていく可能性も高いです。一方、作品が発表されてから何十年、あるいは百年以上も指示される芸術作品の解釈は、正解を一つに突き詰めることのできない難しさを感じます。故に、廃れることもなく受け継がれていくのではないでしょうか。
2011年。SNS時代と騒がれる今、「より簡潔に」、「より分かりやすく」をモットーに、メッセージを送りあう若者が増えてきています。そのスピード感が、秒単位で世界に変革を齎しています。このように、即効性のあるコミュニケーションを求める時代には、ビジネス書や実用書の方が読者獲得に繋がるのかもしれません。
しかし、私には、人と人とが、発する言葉一つひとつに、また書き文字一つひとつに昔ほどの気づかいをしなくなっている、こんな時代だからこそ、読者が能動的に探求しなければ読み終えることのできない、文芸書に価値が出てくるのではないかと思います。
野村るり子
第三百三十三言「大切な講師の使命。それは、保護者と子どもを同時にハッピーにすること。管理者と社員を同時にハッピーにすること」
まだまだ寒い日が続いているのに、表参道のウィンドウは既に、春色に変わってきています。
不思議なものですね。こんなウィンドウを眺めているだけで、心は、だんだん春に向けて、新しいことに挑戦したくなるものです。
私たち講師には、そんな「挑戦心を持った人たちをサポートする」という、大切な使命があります。しかも、多くの人を同時にハッピーにしなければならないという。
このハッピーな感覚、すなわち「幸福感」とは、人それぞれ異なるものです。それが、親子間で異なっていたり、上司部下で異なっていたりするものです。
「幸福感とは、100人いれば、100通りある」ということです。
受験や進路指導では、「保護者が信じる子どもの幸せ」と、「子どもが信じる自分の幸せ」に大きなギャップがあることを知ります。
社内研修では、「組織幹部が信じる社員の幸せ」と「社員が信じる自分の幸せ」にギャップがあることを知ります。
これらのギャップを軽視したまま前に進むことは大変危険です。心身ともに健全な若者であれば、独自の価値観も持つ時がくるでしょう。そして、「若者たちの思想」と「保護する側や管理する側の思想」の乖離が激しくなってからの歩み寄りは大変難しくなります。
講師にはいくつもの使命があると思います。
その一つは、「保護する側と保護される側」そして、「管理する側と管理される側」。これらの両者が同時にハッピーになる均衡点を見出すことではないでしょうか。
さらに、各々の考えを、気持ちよく相手に伝えられるだけのコミュニケーション力を持って頂くこと。
講師業を通し、多くの人たちに夢や希望を与えることは私の喜びです。しかし、そこで留まることはありません。長い時間をかけ、問題解決のサポーターも務めたいと考えています。
なぜなら、その先に待っている、多くのハッピーフェイスが、日本を元気にしてくれることを知っているからです。
野村るり子
第三百三十二言「自分の経歴書とプロフィールを作る」
学生時代から、かなり長い間はまっていた、ちょっと変わった趣味があります。
それは、「自分の経歴書を書き直す」という趣味です。
経歴書は、人に見せる目的で書くので、長々と書くわけにはいきません。
A4 1ページから、長くても2ページまででしょう。
学歴も職歴も少ない学生時代は、A4 1ページを埋めるのがやっとでした。ですから、単純なアルバイト業務を大げさに書いたり、数日しか参加していないボランティア活動を、まるで、毎日やっていたかのように表現したりと、工夫をしたものです。
年を重ねるごとに、経歴書に書き込む内容も増えてきます。そして、ついには、無駄な情報をそぎ落とす時期に差し掛かります。今度は、何を残し、何を削るかに頭を悩ませます。
こうやって、何回も書き直した経歴書は、"短い自分史"となります。
この自分史で重要なのは、過去の自分と今の自分。そして将来なるであろう自分との間に"整合性"があることです。実際には、行き当たりばったりの人生であったとしても、よく考えているうちに、整合性が見えてくるものです。
天職と出合った人の多くは、経歴書を人に見せることが少なくなり、その分、"プロフィール"を求められるようになります。
講演をするにしても、書籍を書くにしても、"Who I am"が200文字程度で分かるものは、よく求められます。
プロフィールと経歴書の大きな違いは、プロフィールには、自分の書きたいことを選択して書く自由があることです。
学歴をアピールしたい人は学歴を、
職歴をアピールしたい人は経歴を、また、
受賞暦をアピールしたい人は受賞経験を、・・・といったように、自分の知ってもらいたいことを、前へ前へと出すことができます。
以前、ビジネス書の著者ばかりが集まるパーティーの席で、プロフィール入りの名刺を下さった方がいました。私は、そこに書かれた内容を拝見し、「すばらしい内容ですねぇ~」と、つい溜息をついてしまいました。
すると、その方は、「野村さん、プロフィールとは、上がり下がりのある人生の天辺の部分を切って並べたものですよ。その下には谷がいくつもあるのですよ」と微笑みながら答えました。
確かに自分が現在使用しているプロフィールも、文字数オーバーになれば、自然と「谷」の部分が削除され、「山」の部分だけが残ります。そして、並んだ「山」を見て感じるのは、谷が深ければ深いほど、次に這い上がった先の山は高いということです。
では、常に「山」ばかり並べているプロフィールが王道なのでしょうか?
先日、執筆活動を開始したばかりの方が、「プロフィールには、東大やらハーバードやら、著名な大学名。一部上場の有名企業。あるいは、教授か経営者の肩書きが必要なのですか?」と聞いてきました。
決して、そうとは限りません。「苦役列車」で第144回芥川賞受賞された、西村賢太さん。彼の書籍プロフィールを見たことはありますか?
1967年7月、東京都江戸川区生まれ。中卒・・・
から始まります。
彼にとっての個性は、「谷」の部分なのでしょう。これこそが、彼の人生を象徴するものです。
ただし、これだけは覚えておいておきましょう。「谷」の部分をアピールして、仕事が手に入る人は、その分、プロフェッショナルの道において極めている人たちです。
逆境を乗り越えた"今"があるから、「谷」の部分に価値が出てくるのです。
経歴書とプロフィールについて、野村の考えを、色々述べてきました。
さて、皆さんも、時間を見つけて、自分の人生を1枚の紙に整理してみませんか?
きっと何か発見があるはずです。
野村るり子
第三百三十一言「性的虐待について考える。映画『白夜行』を見て、あなたに出来ることは何か?」
東野圭吾氏の小説、『白夜行』(集英社文庫)の映画化作品を見てきました。
少女期に性的虐待を受けてきた西本雪穂と、彼女を見守り、陰で支える桐原亮司の19年間を描いた物語です。
雪穂を守る為に亮司が犯す犯罪の数々に、目を覆いたくなるシーンもあります。映画をご覧でない方の為に、これ以上の内容に触れることは遠慮しておきましょう。
しかし、映画の最後のシーンについてだけは、触れさせて下さい。
雪穂と亮司を19年間追い続けてきた元刑事笹垣潤三が、亮司の死を眼の前にして、雪穂に訴えかけるように問うシーンがあります。
「あなたは、この人(男性)を知っていますか?」
この問いに対し、感情を込めることなく「いいえ」と答える雪穂。
一見、冷酷に見えるシーンですが「児童虐待と心の傷」をテーマに研究をすればするほど、この主人公の言動は、決して不思議でないことが分かります。
幼少期に受け続けた性的虐待により、人間的な感情を失う子どもは少なくないのです。
実際、『白夜行』で描かれたストーリーが非現実的なものかと言うと、そうでもないのです。
特に、性的虐待の部分だけ取り上げるなら、この映画は現実からそれほど乖離していません。
日本国内において、幼少時虐待の報告は毎年3千件以上あります(厚生労働省調査)。
また、幼少期に受けた虐待により精神障害を発症するケースや、その後の人生において、正常な家庭生活を送ることのできないケースも多く報告されています。
さらに言うなら、性的虐待は、女児にのみに起きている悲劇ではありません。多くの男児も犠牲になっています。
今回の映画の主人公、西本雪穂のように、傷つくことを避け、自らで感情を捨てる人も少なくありません。過去の記憶を意識的に抹消したり、心の痛みを無視したりというのがその例です。
それでも、3千件という報告件数は、北米と比較し、圧倒的に低いです。これは、日本国内での虐待発生率が低いことを意味するのではありません。正確に報告する子どもの数が少ないことを意味します。
「自分自身が悪いのだ」や「自分は恥ずかしいことをしたのだ」と自分を責め、内省的に処理しようとする子どもが多いこと。
悪戯に情報が流出することを恐れ、打ち明けない子どもが多いことを意味します。
さらに、母親や学校の教師といった身近な大人に勇気を振るって打ち明けた結果「あなたにも問題があるのではないか」や「あなたの思い違いでは」と逆になだめられたことがきっかけとなり心を閉じた子どものケースも多いです。
私は、今回のように、完成度の高い映画作品と出会った時は、その背景にある社会問題についても目を向けるようにしています。そして、問題解決への一歩を踏み出そうと思います。
それが、法律で子どもを救うことであるかもしれません。
あるいは、子どもの話をじっくり聴くことかもしれません。
映画『白夜行』を鑑賞した後考えてみて下さい。
今のあなたにできる一歩が何なのか。
野村るり子
